2017/12/03
説教題: 「はじまりはじまり」
聖 書: ルカによる福音書1章5-25節
 
「彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。ルカによる福音書1:17」

 本日からアドベント第一週に入ります。四週目の主の日に教会では御子の生誕を覚えて礼拝をささげて喜び祝います。御イエス・キリストがこの地上に現れるに際して、神様は御子に心を向けさせるための良き働き人として洗礼者ヨハネを立てられます。「荒れ野で叫ぶ声がする」というイザヤの預言の言葉をもって洗礼者ヨハネは人々に御子イエスを迎えるための心備えを教えたのです。クリスマスの喜びは、その物語の中に神様によって招かれた人々が共にその出来事を待ちわびながら迎えるということです。キリスト・イエスを中心とした交わり、それは教会という信仰契約共同体がこの地上に創り出されてゆく先駆けであったのです。拠って私たちの人生における物語の中心は神の御心・御旨であるイエス・キリストであると言えます。この方と共に歩み始めるのであれば、私たちの心と体は古き者から常に新しくされてゆくと神は約束されています。牧師 山本龍一郎

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2017/11/26
説教題: 「あなたに信仰心はありますか?」
聖 書: ルカによる福音書17章11-19節

「それから、イエスはその人に言われた。『立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。』ルカによる福音書17:19」
 イエスが進み行かれた先々において、イエスを必要とした人々が抱えていた悩みの多くは病による苦しみ、孤独と不安であったと思われます。十人の重い皮膚病を患っていた人々が身を寄せ合うようにして過ごしていた際、イエスは彼らの傍を通られました。彼らは声を張り上げて「私たちを憐れんで下さい」と叫び、彼らの病は癒されます。ところがその後、神に感謝をささげに戻って来たのはサマリヤ人一人だけであったのです。他の九人は礼も言わずに立ち去って行ったのでした。私たちは自分で生きていることが当たり前でなく、生かされている存在に過ぎません。神に癒され、祝されることから遠く離れた場所で孤独と戦い続けてきたサマリヤ人は心身共に癒され、新しく神を賛美し信じる者として歩み出したのです。神は主イエス・キリストにあって私たちの心と体に触れて下さり、共に生きよとご自身の元に招いて下さいます。神様への感謝の思いを信仰によって献げてゆく私たちとなれますように祈ります。牧師 山本龍一郎

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2017/11/12
説教題: 「世に仕える者となる」
聖 書: マルコによる福音書9:33-37

 イエスから選ばれた12弟子たちは神のご計画に従い、イエスに倣った生き方に徹することを是とし、イエスによる福音宣教の旅に随行しながら多くを学びました。イエスは方々の町や村を回り、病める人々を癒し、教え、福音を宣べ伝えました。その旅路の後半でイエスは御父なる神による大いなる御計画に従う決意をもって十字架に向かう心備えをしつつ、弟子たちにそのことを話されたのですが、弟子たちは、なおイエスの御国を地上の王国と考え、自分たちがその王国の大臣に任じられると考えていたのです。そのようなことを考えること自体がイエスの弟子に相応しくはないことは分かりながらも、彼らは互いの去就のことで頭が一杯になっていたのでした。イエスは一人の子どもを手にとって彼らの真ん中に立たせて抱き上げて言われました。

 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。マルコによる福音書9:37」

 本来、人は世に生まれた際、完全に無力、無防備であり、究極的な弱者であります。そのような小さき者を通して神は自身の栄光を顕ことを是とされます。力ある言葉と印をもって宣教したイエスに同行した弟子たちの思いは徐々に高ぶっていきましたが、その後、十字架におけるイエスの死によって彼らの思いや考えは脆くも崩れ去りました。神様は人間の高ぶってゆく思いを十字架のイエス様の死によって砕かれ、復活の命によって赦し、愛と平和と希望を私たちに与えて下さいます。牧師 山本龍一郎

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2017/11/05
説教題: 「約束の道」
聖 書: イザヤ書40:1-1

 全て目に見えるものはやがて終焉を迎えることによって消え失せてゆくという確かな現実に生きている私たちの思いの中に虚無感が漂います。生きていることに意味があるのか、ないのかと言う議論の先に虚しさがあり、その答えを探し続けるようなことはすべきではないと文豪の夏目漱石は著書「それから」で語っています。紀元前586年、バビロンにおいて捕囚の身となり、祖国滅亡の憂き目に遭っていたイスラエル人の心には暗黒だけが迫ってきました。そのような失意のどん底において神は彼らに希望の言葉を語りかけます。「主のために、荒れ野に道を備え わたしたちの神のために荒れ地に広い道を通せ。イザヤ書40:3」と。人間は人間のために生きるのであれば最後は徒労に終わることもあります。しかし神の言葉はいつまでも人間を生かし続けることができます。主なる神様のために生きるのであれば、私たちの人生は徒労で終わることはありません。牧師 山本龍一郎

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2017/10/22 Sun
説教題:「新しい歌を主に献げよう」
聖 書: ヨハネによる福音書13:34-35

 人類の歴史の出来事の多くは国々の間における覇権争いなるものを起因とする戦争による惨劇です。戦争は人間社会の断絶、憎しみの連鎖、怒りと悲しみを生み出します。今日も権益を手中に収める国が覇者となってゆく世にあって、神は御子によりて人類を滅びの死より救い出すための道を2000年前、人類に与えられました。恥と苦悩、絶望の果てに至る十字架で朽ち果てた御子イエス・キリストの死、人々の目にその姿は覇者によって滅ぼされた敗北者そのものでありました。御子に信従した者たちの運命も同様に敗北と決定づけられた際、神は御子を甦らせた事実を彼らに示されたのです。神は今日も私たちと共にいて下さいます。その方から注がれている愛の力による平和と希望は決してなくなることはありません。だから、私たちは過った罪の中に留まり続けることはできなくなるのです。だから生きよう、主がおられるのですから。主の御名だけがいつまでも褒めたたえられますように。神は私たちの力、命そのものです。本日は大勢の方々と礼拝を献げるこおとができましたことを感謝いたします。皆様の上に神の豊かな御祝福がありますよう祈念いたします。牧師 山本龍一郎

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2017/10/15 Sun
説教題:「神の経綸による積極的思考」
聖 書: 使徒言行録27:27-38

 2000年ほど前、キリストより使徒たちに委託された福音の種は地の果てに向かって蒔かれ、凄まじい勢いで広まっていったと思われます。ローマが周辺諸国を征服し、ヘレニズム文化と共に一強一帝国の勢いが増した際、その陰で地域文化は破壊され、分断されていきました。様々な人々に対する抑圧と搾取、差別が常態化する中で魂に渇きを覚える人々に対して使徒たちは全身全霊をもってキリストによる救いの道を教え宣べ伝えたのです。キリストについて証しせよとの命を神から授かった使徒パウロの生涯は福音宣教の旅路に明け暮れる人生でした。パウロは寝ても覚めても福音が一人でも多くの人の心に届くことだけを願い、回心後の全生涯を神に委ねきりました。ローマに着いて皇帝の前で証しをするまで自分は決して死ぬことがないという確信が彼の心と体を奮い立たせたのです。何が人を生かすのでしょうか。健康、知恵、知識、能力、人間が求め続ける飽くことのない貪欲、貪欲は人を罪の深みへと誘います。人を生かす神は、私たち人間にとって必要なものの全てをご存知です。試練と迫害の中でも、心折れることなく、命失われることなく伝道者として強く生きたパウロは自分を生かす神の恵みだけを拠り頼みとしていました。神様、私たちがあなたを深く知り、あなたの恵みによってのみ生きることができますようお導き下さい。悪より守りたまえ。 牧師 山本龍一郎

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2017/10/08 Sun
説教題:「パウロが覚悟したこと」
聖 書: 使徒言行録21:27-36

 「イスラエルの人たち、手伝ってくれ。この男は、民と律法とこの場所を無視することを、至るところでだれにでも教えている。その上、ギリシア人を境内に連れ込んで、この聖なる場所を汚してしまった。」使徒言行録21:28
 由緒あるユダヤ教徒、またローマ市民であったパウロがキリスト伝道者となり、異邦社会で共に生きるようになった姿は、保守的なユダヤ教徒の目には奇異に映りました。パウロはユダヤ教徒として神殿内に入ることもあり、多くの保守的なユダヤ教徒は彼の噂を耳にし邪推したと思われます。時は「過ぎ越しの祭り」が行われる時期であり、世界中から何万人ものユダヤ人がエルサレムに集まって来たときの出来事です。宗像市の沖ノ島は女人禁制であるが、今年7月に世界遺産に登録されたことを契機に男性も入ることが禁じられました。そこは聖所とされたのと同様、厳格なユダヤ教徒にとって神殿は聖所であり、異邦人がそこに入れば死刑に値する罪とされました。群集の興奮した空気に殺気を感じたローマ軍は千人歩兵をもってローマ市民でもあるパウロの身を守りました。キリストのために覚悟して福音宣教に身を置いたパウロはそのような窮地を乗り越えていきました。誤解・分断・断絶されたように思えてしまう場所にも神は共におられます。神のために死を覚悟する際、私たちは真に生きる者とされてゆきます。キリストの愛の力と知恵によって 牧師 山本龍一郎

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2017/10/01 Sun
説教題:「苦難が襲ったとき 」
聖 書: ヨブ記2:1-13

 ウツの地(イスラエルのから南東部、エドム辺り)で数えることのできないほどの家畜を飼い、家族にも恵まれていたヨブに容赦することなく災いが降りかかります。ヨブが所有する家畜が略奪され召使が殺害された事件、天から神の火が降りヨブが所有する羊、羊飼いが焼け死んでしまう災害、更に再び家畜が強奪され、その直後、大型の台風に襲われたヨブの子どもたちの突然の死、更にヨブは重い皮膚病に罹ります。そのような状態に至らしめたは、神より許可を得たサタンでした。神に対して誠実な信仰をもっていたヨブ、神はヨブの信仰を認めていたのですが、サタンはその評価に対して嫌疑をかけたのです。ヨブ記に登場するサタンは悪魔の役というよりは検察官のような役でヨブの不信仰を引き出そうすることに徹します。これこそがサタンの誘惑と思える記事です。種々の試練に直面しながらも最後まで神を呪うことをしなかったヨブの揺るぐこのない信仰は彼を再び勝利へと導きます。苦難の只中にも真の神は共におられます。その神への揺ぎ無い信仰こそが希望、平和、勝利へとつながることを信仰者は神から既に知らされています。だから信じましょう。牧師 山本龍一郎

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2017/09/24 Sun
説教題:「救いは主にある」
聖 書: ヨナ書2:4-10

 悪に染まったバビロンの首都ニネベ(現在のイラク中央辺り)で神の言葉を告げよと命じられたヨナは神様には従おうとはせずに船に乗って逃げ出そうとします。やがて船は大嵐に遭い沈没寸前にまで追い込まれ、その災いの原因は自分にあると悟ったヨナは償いの思いをもって海に自らを投げ出しました。神様はは大魚に命じて、ヨナを呑み込ませられた。静寂な深淵の闇に沈み行く中でヨナは気づかされます。そこに神が共におられることを。神は御子を十字架において滅ぼし、復活させられました。罪によって死んでいる人々が共に復活するためです。

「息絶えようとするとき わたしは主の御名を唱えた。わたしの祈りがあなたに届き 聖なる神殿に達した。」 ヨナ書2:8

牧師 山本龍一郎

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2017/09/17 Sun
説教題:「我が心、目覚めて、主を賛美せよ」
聖 書: 使徒言行録16:25-34

 今夏7月に105歳で天に召されました日野原重明氏は長きにわたって「命」の大切さをテーマにした講演活動に力を注がれました。医師であった日野原氏は「命」とは一人ひとりに与えられているこの世における時間であることを力説されました。自分に与えられた時間を有機的、且つ喜びと感謝をもって使うことができるのであれば人間の幸福感は増すことは確かです。反対に自らが過ごした時間に意味を見出せないのであれば、その人の心の内には後悔の思いがいつまでも残ります。キリストの使徒であったパウロは神の福音を一人でも多くの人に宣べ伝えることに専念しユダヤ地方からアジヤ、ギリシャ、ローマへと伝道の旅に出て行った。その旅の途中で不当に拘留され牢獄で過ごすこともあったが、そのような場面にあっても神が彼を祝されたことが聖書には記録されています。パウロが同胞と共に牢に入れられていた際、突如地震が起こり、牢の戸が開き収拾がつかない状況となり、その場に居た看守の一人が責任を感じ、自ら剣を抜いて自害しようとした際、パウロは彼に大声で叫びました。「自害してはいけない。私たちは皆ここにいる。」 自分に責任が及ぶと上役を恐れたその看守はパウロに尋ねました。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」 パウロらは言いました。主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」 神はキリストにあって、私たちが背負い切れない重荷の全てを担って下さいます。「主に委ねよ、あなたの重荷の全てを。」 神は今日も私たちと共にいて下さいます。牧師 山本龍一郎

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2017/09/10 Sun
説教題:「キリストと共に生きる」
聖 書: ペトロの手紙一2:18-25

 「主を畏れることは知恵の初め(箴言1:7)」という聖句があります。この言葉の真意は天地万物を創造された神が私たち人間が罪深く生きる有様を見て、上より天罰を下されるということではなく、私をかたち造り、今も私を支えておられる神は共におられるという思いを根拠とする創造主に対する畏敬の念です。人間は神によってかたち造られ、神の息を吹き込まれて生きる尊い存在であることを知らされてゆく際、人間は自己の存在を大事にしながら、他者の存在をも否定せずに共生する道を探り出すような生き方に変化していきます。古代ローマの時代、戦争で捕虜となった6千万人が奴隷としてローマ人の生活を下支えしていました。そのような社会構造の中で初期のキリスト教会の中心メンバーとなっていったのが奴隷という立場の弱い人たちであったのです。人間としての尊厳が失われていく先に、失望や絶望という深淵は現実味を帯びてきます。人間が人間以下の存在とされてゆくような断絶や破壊をもたらす戦争はしてはなりません。人間を創造した神への尊敬の思いを人間自らが失ってゆくのであれば、人間は取り返しのつかない罪を繰り返す結果に至ります。ご一緒に礼拝を通して神様との正しい関係を構築しながら、共に希望ある明日へ向かって歩みましょう。牧師 山本龍一郎

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2017/09/03 Sun
説教題:「かたくなな歩みを捨てず」
聖 書: 士師記2:16-23

 エジプトにおいて迫害を受けたイスラエルの民の叫び声は神の元に聞き届きました。神はイスラエルの民を約束の地であるカナンに向けて出立させた。彼らは40年間の荒野での旅路を経てカナン地方、現在のエルサレム周辺に辿り着くことができましたが、そこには既に文明が開かれおり、文化的・宗教的な影響を受けます。やがて彼らは自分たちの先祖が最も大切にしてきた神との関係を破棄してしまうほどに堕落していったと聖書の士師記2章には記されています。自分のルーツを知ることは誰にとっても興味深いことです。歴史を無視する、忘却することは堕落への一歩、或は危険な方向への滑り出しとなることが多い。創造主である神と私との間における正しい関係の構築は、人の心を強くします。人と人とのつながりが希薄になりがちな昨今の現代社会ではありますが、主イエス・キリストによるつながりを経て、私たちは人との人との信頼関係を築いてゆくことができますよう祈ります。牧師 山本龍一郎

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2017/08/27 Sun
説教題:「神の幻を求めつつ生きる教会」
聖 書: 使徒言行録16:6-10

 終戦から72年を迎えた今日、日本は経済的な豊穣を手にしながらも更なる問題や課題に直面しています。少子高齢化による慢性的な人手不足と消費の減少による売り上げの減少、AIの技術の発達が人手不足を解消する新たな時代に対する期待と不安等々、私たちが生きる現実は常に変化し続けます。そのような社会にあって教会は人々に何を伝えてゆくことができるのか常に問われています。教会は主イエス・キリストと共に歩み、主の救いを宣べ伝える使命に生きる群れでありますが、それだけでは対処しきれないような課題や問題に直面する際、悩み立ち止まることになります。使徒パウロは神の示される地へ福音の種を運び続けた伝道者でしたが、その旅路の途中で神によって進み行くことが禁じられたと証言しています。何かしらの問題に直面し悩み、祈り、自らが行くべき方向をじっくりと考えたと思われます。教会は常に悩み、共に考え、祈り合う群れであってほしい。たとえ今の現実が変わらないと解っていても、主が新たな気づきを与えて下さると信じて祈る人々の群れであってほしい。牧師 山本龍一郎

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2017/08/13 Sun
説教題:「神の目に悪と映ったこと」
聖 書: サムエル記上8:1-9

 神は私たちが必要としていることの全てを知っておられる。だから、私たちはあれこれと思い煩うのではなく、何よりも神の国と、神の義を求めるようにと聖書は勧めます。私たちが欲する要求は、飽くことがなく、一つのことに満足した瞬間に、更にそれ以上のものを求めるという具合であります。何かを失うという不安に駆られてしまう人の心の弱さに打ち勝つためにルターは次のような祈りを就寝につく前に捧げていました。「われらの目はここに眠れど、われらの心を汝に対して目覚めしめ給え。神の右の御手よ、われらをおおい、罪のきずなよりわれらを解き放ちたまえ」
 終戦から72年を迎えようとしております。二度とあの戦禍に至る絶望的な道を歩むまいと誰もが願ったあの時代から、今世界の多くの国々は再び軍事力を増強し、安全安心を得ようとしているように思われます。しかし、それらは人間の発想に基づく平和の樹立であり、真の平和・希望ではないと聖書は証言しています。どんな時でも神は私たちが信仰をもって神を第一とする生き方を貫くことを望んでおられることでしょう。信仰心ない人にとっては神を第一とするとは無防備、且つナンセンスなことです。しかし、神の力は人の弱さの中において豊かに働くと聖書は約束しています。霊と真をもって神に対して生きる私でありますように。牧師 山本龍一郎

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2017/08/06 Sun
説教題:「箱舟へ乗ったノアとその家族」
聖 書: 創世記6:5-13,18-22

 今夏、日本列島の各地で発生しているゲリラ豪雨による被害を受けて、かつて起きた大地震と同様、人間はどんなに大自然に抗ったとしても、その脅威には打ち勝つことができない無力な存在に過ぎない事実を思わされます。長い月日をかけて先人が築いてきた人々の営みが一瞬で奪われていくような光景を目にしますと人間が生きることにどのような意味があるのだろうと考えさせられます。聖書の創世記の時代には人々が暴虐と放縦に明け暮れる日々を過ごしていた中で、神の目に留まったノアに対して神は箱舟を造るように命じ、彼らが生き長らえるための道を備えられたと記されています。ノアは「神に従う無垢な人」でありました。無垢の原語を調べてみますと「正しく完全」、端的に言えば「神に対して実直な信仰を持っていた」と解釈することができます。イエス様はこの世の不確かなことに関心を抱くのではなく、神から出る真実な言葉に目を留めるようにと勧められます。神様は神の言葉を待ち望む私たちの心の飢え渇きを完全に満たすために、この世界に御子イエスを遣わしたとみ言葉は証言します。牧師 山本龍一郎

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2017/07/30 Sun
説教題:「神の清めが降る」
聖 書: 使徒言行録11:4-14

 数年前より日本バプテスト連盟より宣教師としてカンボジアへ派遣されている嶋田和幸氏は現地の生活に慣れてゆくには相当な時間がかかることを「世の光」(日本バプテスト女性連合発行)7月号で語っています。言語、文化、食事、慣習が異なる異国での生活にストレスを感じながら宣教師としての務めに励まれています。ユダヤから異邦人伝道に遣わされた使徒の内の一人ペトロは、ユダヤ人として守ってきた律法の規定を破ることについて気を揉んでいました。律法では異文化的なものに触れることは穢れ、タブーとされていたからです。ペトロは異邦人社会で伝道する際、色々と悩んだことでしょう。クリスチャンととは?ユダヤ人とは?神の御心とは?そのような中で、神は彼に一つの幻を示し、確たる思いを与えられました。「ためらわないで一緒に行きなさい」 神によってペトロの心に大きな風穴が開けられました。キリストの十字架を保証とした神の清めがペトロの心を自由へと解き放ったのです。パワハラ・セクハラ・差別・蔑視、耳障りな言葉が飛び交う社会で、私たちは傷つけ、傷つけられるということを経験します。しかし本当の神様の御心とは全ての人が互いの違いを乗り越えて、理解し合い、受け入れあう関係に生きることができるようになることです。私たちの心に根付く小さな優越意識なるものなど取るに足らないものです。一人ひとりの存在が大切にされる社会、世界となっていきますよう祈ります。 牧師 山本龍一郎

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2017/07/23 Sun
「主の赦しのある場所において」

 大伝道者の一人であったパウロは元々生粋のユダヤ人であり、ユダヤ教の中でも最も敬虔なグループのファイリサイ派に属し、キリスト者の撲滅、取締りに日々熱を入れる過激なナショナリストでありました。自分が行っていることが正しい、神の御心に適うことと信じて疑わないパウロでありましたが、神は彼をユダヤ教徒からキリスト者へと回心させ、世界伝道のために用いられたのです。神の赦しは、私たちの古き生き方、価値観、世界観をも瞬く間に変えてしまうことがおできになります。パウロはダマスコという町でイエスの声を耳にし、神が放ったと思しき光によって視力を失い、路頭を迷い絶望的な状態に置かれたのですが、神はキリスト者アナニアを彼の元に遣わし、パウロに回復を与えられました。パウロの元に勇気を振り絞って臨んだアナニアの気高い信仰の姿勢は私たちの模範であるイエス様を映し出しています。神様は今日も私たち一人びとりを十字架のイエス・キリストを通してご自分の元へと招いておられます。神から注がれる力とその言葉によってのみ私たちの心は確かで強いものとされていきます。牧師 山本龍一郎

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2017/07/16 Sun
「感謝し、従うべきお方」

 出エジプト記における神概念は、荒れ野においてイスラエルの民を必要を満たし、昼は雲の柱、夜は火の柱として大自然を通しての神の臨在とされていますが、使徒言行録においてペトロが証言している神とはイエスを死から復活させた神であり、そのイエスこそが神の本質を現したお方であるということです。主が私たちと共におられるという確信がペトロやほかの使徒たちを励まし、福音を告げ知らせる使命を促進させたのです。彼らは同胞であるユダヤ教徒から迫害を受ける中でイエスについての証を大胆に語りメシア到来による救いを告げ知らせました。彼らの言動は弾圧によって封じ込まれる寸前にまで追い詰められましたが、ファリサイ派に属するガマリエルという民衆から信頼されている人物の一言によって守られたことは意外なことです。「あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。」と民衆に語ったガマリエルの一言の内に神に対する畏敬の念を覚えることができます。私たちの心を暗くさせる事象は常に起こります。しかし、神は十字架のイエスとして、その暗闇のどん底の場所にいて下さいます。それ故に未来は明るい。主に従い、感謝して生きよう。牧師 山本龍一郎

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2017/07/09 Sun
「安息なさった神さま」

 神は安息なさった(創世記2:2b)の言葉に基づいて、人は普段の活動を一時停止して、神への感謝の時間を思うことはとても大事なことです。自分が何処から生まれて、どこに向かって行くのか、そのことについて、人は各々自分の宗教観や世界観に基づいて考え、結論付けることは自由でありますが、聖書には神は天地万物の創造を6日間で完成させて、7日目には安息なさったと記されています。また神はこの日を祝福し特別な日として分かたれたとも書かれています。私たちは週に一度、このお言葉に基づいて神様と同じように自分の活動を一旦停止して、神様への感謝の時間として礼拝を献げることを大事にします。そして礼拝を通して私たちは自分の命を創造して下さった神様の恵みに感謝を献げることによって、自分を含む全世界は素晴らしいという希望の思いを頂くことができるのです。牧師 山本龍一郎

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2017/07/02 Sun
「永遠の命に至る水」

 神が共におられる場所に命が溢れることを聖書は力づよく語ります。イエスは、エルサレムからガリラヤに向かう途中、サマリヤのシカルという町に立ち寄った。イエスは疲労と共に喉に渇きを覚えられていました。イエスが井戸の傍に座っていた際、そこに水を汲みに来たサマリヤの女にイエスは声を掛けて水を求めたのです。ユダヤ人とサマリヤ人は歴史的に互いに反目しあう関係であったにも関わらず、イエスがその女に声を掛けたことに、その女は驚きました。一杯の水を求めたイエス、そして何故私に声を掛けたのですかと問うた女、そこに生じた出来事とは関わりでありました。その関わりの中に彼女は活き活きとした神の臨在の確信を得て、歓喜に溢れて、仲間の所に救いが訪れたと喧伝するに至ったと記されています。イエスは正真正銘の人間でありながらも、来るべきキリストであったことが福音書には記録されています。神は私たちの孤独から生じる呻きや不安に対して寄り添うようにして目を向け、耳を傾けて下さいます。そして、永遠の命に至る水を無償で与えることもお出来になるお方です。だから、私たちもその水を頂いて、希望ある平和な日々を共に歩む者でありたいと願います。牧師 山本龍一郎
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2017/06/25 Sun
「神の霊的な働きに委ねて」

 ペンテコステ(聖霊の降臨)によって誕生した原始キリスト教会は力強く前へと進みながらも、教会内においては種々の課題や問題が既に生じていたことも記録されています。聖霊の力が漲るような雰囲気に包まれた初代教会ではペトロの言葉や叱責は非常に強い働きをしていたと想像されます。当時、恐らく主イエスの再臨への期待を抱く人々が全財産を教会に献げて共同生活するような形で教会が形づくられていたと思われます。裕福な信者が多額の献金を教会に献げている雰囲気に影響されてか、アナニアと妻のサフィラは偽りの言動をして教会内を混乱させてしまい、結局二人は死んでしまいます。そのことを耳にした人々は皆、非常に恐れたと記されています。神の教会における奉仕の業は多様であって一様ではありません。主イエス様は私たちのために善い業をなされました。また、あなたたちも私のようであってほしいとも言われました。私たちは主に倣って限りなく神に栄光を献げながら近づくことはできますが、それを自らの誇りにつなげようと思う時、悪魔の誘惑の罠に陥るのです。私が為すべき奉仕は何でしょうかと神様に対して率直、且つ素直に祈り求める者となりましょう。牧師 山本龍一郎

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2017/06/18 Sun
「希望と平和と信仰」

 初代教会の信徒たちは、家ごとに集会を持つようになったが、最初の頃は、他のユダヤ人と同様にエルサレム神殿に行き、「祈りの時」を守った。ペトロとヨハネが神殿に行くと、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来た。彼は施しを乞うため、毎日「美しい門」のそばに置いてもらっていた。この人が何かをもらえると期待して、ペトロとヨハネを見たので、ペトロは彼に今日の聖句を語った。ペトロは「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と言った。そして、ペトロが右手を取って彼が立ち上がるのを助けると、その人は立ち上がって歩き出した。その人は、人の助けだけで生きるのではなく、神の力にによって生き、神の名を賛美する者となった。≪内藤淳一郎著 一日の発見より≫  災難、挫折、病気、失敗を経験する中で私たちは理想の夢から今の現実に引き戻されます。受け入れがたい現実に直面する時、私たちは希望を失い、災禍は自分の運命であると自らに言い聞かせながら、がらがらと転がるように自己の主体性を失っていく。主イエスの名は自らの運命に縛られていたその男に希望を与え、神を称える者へと造り変えた。主のみ名は私たちの心も、時には体をも強くし新たな者へと変えて下さいます。牧師 山本龍一郎

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2017/06/11 Sun
「神に献げられた真心」

 「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。ヨブ記1:21a」とあるように本来、人は自分で得たものを一つも持たずにこの世に生を受けたに過ぎません。中三の棋士である藤井聡太さんが25連勝という快挙を果たしました。彼が使っている扇子が売り切れ状態になっていると聞きます。彼にはどのような教育が施されてきたのか、誰もが興味を抱くのはごく自然なことです。私たちは自分よりも遥かに優れているものや、この世で価値があるものに心惹かれるものですが、神様が求めているものはそうではありません。神様が私たちに求めているもの、それは神に対する真心そのものです。自分が豊かであっても、そうでなくとも、常に神への絶対的な信頼をもって委ね切る信仰こそが最大の献げ物なのです。その印として私たちは感謝の思いをもって奉仕の業に自分自身を献げます。神様は主イエス・キリストの十字架を通して、ご自分と人間が和解するための新しい道を切り開いて下さいました。私たちはキリストを通してのみ、その神の元へ帰ってゆくことができるのです。真心をもって神に対して生き、隣人をも大事にしてゆくことができますよう主の御名によって祈ります。牧師 山本龍一郎

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2017/06/04 Sun
「聖霊が降る」

 本日はペンテコステを記念する礼拝日です。ペンテコステとは、ユダヤ教の三大祭りの一つで「七週祭」、あるいは「刈り入れの祭り」と呼ばれ、麦の収穫の初穂を神に捧げる日を指します。古代の教会ではイエス・キリストが墓より復活した後、丁度この日が50日目であったことから、ギリシャ語の第50の意であるペンテコステと呼び、イエスが預言した聖霊が降った日として記念するようになりました。聖霊が降ることによって多くの信心深いユダヤ人が集められ、そこに新しい信仰共同体となる教会の基礎が据えられていきます。集まって来た多くの人々が聖霊の働きに心打たれて、新しい信仰の歩みに入ったことが使徒言行録の冒頭には記録されています。曾てバビロンに捕囚となったユダヤ人の子孫は祖国亡失を余儀なくされ、バビロンからの解放後も離散の民として周辺諸国において生き抜いた人もいたと思われますが、この日、再び神が霊的な神の国を再びそこに再建された事実を彼らは目の当たりにしたのです。神の国は遥か遠くではなく、私たちの傍にあります。聖霊がその事実を明らかにされたのです。牧師 山本龍一郎

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2017/05/28 Sun
「神の光に照らし出されて」

 先日、報道番組の取材に応じていたある官僚の方が「法律は解釈によって運用の仕方はどうにでもなる」と答えていました。時には自分たちの都合のいいように解釈し、恣意的に物事を動かすことが可能と言っているように私は思わされました。2000年前、ユダヤ人が絶対として遵守した無数の戒律、規則は、彼らが神の前で正しいとされるための最重要となるものでした。人々は生活のあらゆる場面で絶えず、「あなたは・・をしてはならない」という戒めに常に耳を傾けていなければならなかったものだと思われます。法律、戒律は本来、私たちの生活を豊か、且つ安全に至らしめるものであるにも関わらず、時には人間の知恵によって恣意的利用されたり、或は戒律に心が束縛されて不自由な状態に陥ることもあります。イエスは幼子のようになって、神の言葉に素直に生きるものが神の国を受け継ぐに相応しいと語られました。父なる神に対する御子イエスの従順な生き方に倣って私たちも生きるのであれば罪深い世においても、私たちは常に新しくされていきます。牧師 山本龍一郎

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2017/05/21 Sun
・希望ある明日

 イースター礼拝から数十日が過ぎました。墓より甦られたイエスの復活後、イエスは何度も多くの弟子たちの前に現れて、彼らと食卓を囲んだと聖書には記録されています。十字架による死は、イエスの完全な敗北、滅びである事実以外になにもありません。そして墓からの復活劇は、死の壁を打ち破られた神の栄光の現れの出来事です。人は母の内より生まれ、人との関わりの中で育まれ人とされていきます。しかし聖書は人を育まれるのは神であると言います。愛情を注ぎながら育てる親の心の中に神の愛の力が働いておられる。その愛によって人は心強められ、確かでいつまでも残るものに究極的な希望を見出し安堵することができるのでしょう。十字架を通して神様が与えて下さった永遠の命に至る道は希望と平和に満ちています。今週も神と共に愛と平和の道を前進いたしましょう。そこに確かな希望があることを知るために。
牧師 山本龍一郎

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2017/05/14 Sun

・死にあずかるバプテスマ

 人間の罪の償いのために犠牲となる動物を神に捧げる行為は想像してみるだけでも、残酷以外の何物でもないと言われた方がいました。十字架でのイエスの死はそれ以上のことであったと想像するに難くない。死は永遠の虚無と淋しさ、悼み悲しみへ誘います。虚無の極み、永遠の別れの果てにおいて、神はそこに御子イエスを立たされた事実を信仰という恵みによって知らされる際、人は大いなる励ましと希望をそこに見ることができるのです。キリストの死は、私たちの心の深淵部の暗黒の果てにある絶望にあるものです。その死を通して神は全ての人類に再出発すべく新しい命へと生きる道を与えて下さいました。キリストの死にあずかる際、私たちは常に新しくされてゆきます。牧師 山本龍一郎

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2017/05/07 Sun
・主にあって世に仕えよ

 教会での奉仕の心構えの基本は他者性に生きることに努めることを優先すべきであろう。しかし、私たちは心の弱さを抱える人間である故に、自己充足感を満たすことに喜びを感じたり、達成感を覚えたりすることから、心には自己中心的な思いが常につきまとっていることに気づくものです。コリント書を綴ったパウロがキリストに倣った生き方をしたように、私たちも信仰に基づいてそのように生きるのであれば、全ては神の栄光のために用いられます。そのような歩みの中で信仰者は、神にある自由を喜び、信仰の成長に期待を持てるようになります。時代が常に変化してゆく中で教会はどのようにして世に仕えてゆけばよいのかを模索し続けます。小倉教会に求められている神様からの使命は何で あるのかをご一緒に模索していきましょう。牧師 山本龍一郎

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2017/05/01 Sun
・神にある自由を喜び生きる

「『わたしには、すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことが益になるわけではない。『わたしには、すべてのことが許されている。』しかし、わたしは何事にも支配されはしない。」一コリント6:12

 神にある自由を謳歌しつつ、福音宣教の使命に応えたパウロ、その伝道の道は度重なる試練と苦難の連続でありました。しかし、その歩みの中において神の真実な導きと確信がパウロには与えられて、日々強められ、豊かにされ、揺るぐことのない宣教者としての使命を果たすことができたのです。私が主に召されて、神学校を卒業した直後にある先輩から労いのお言葉を頂いたことを今も記憶しています。「おめでとう、世界はあなたものです!」と。その言葉を耳にした私は、全世界に向かって踏み出そうとするはやる自分の気持ちを抑えつつ、今から自分が主体性をもって選び取ってゆくべきことは何であるのか深く考えさせられたのでした。自らの栄光を捨てて私たちのために十字架で犠牲とされた主イエス・キリスト、この方だけが、私たちを罪から救い出し、真の自由と希望を与えることがおできになります。 牧師 山本龍一郎

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2017/04/23 Sun

・神の知恵によって
 
 イエスが歩まれた時代から50年後、キリストの伝道者パウロによるギリシャ・ローマ方面への福音(ゴスペル=良き知らせ)伝道は全世界へ伝播の幕開けとなりました。当初、パウロの伝道は困難の連続であったが、コリントという町での伝道は功を奏し、そこに教会を形成するができました。コリントは地中海の交通の要所としてギリシャの南北交通から、更に交通量の多い東西貿易でこの町が必要とされたのです。しかし活気のある商業都市の陰で、邪悪かつ不道徳な生活に堕落する者が後を絶たず、その近隣からは悪名高い名で知られていた町、それがコリントの一側面でもありました。コリント人のように暮らすと言えば、堕落と放蕩に生きることを意味したと言われます。

「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。」一コリント1:27

 苦しい状況から救われた者たちがキリストと出会った頃の初心を忘れ、教会での自分の立場や地位を誇るようになってしまったことをパウロは信仰と愛をもって指摘しました。人は古き自分を捨てて新しい生き方をしたとしても、神の御前では人は一匹の小羊に過ぎないとダビデは詩編の詩で語っています。神は小さく無力な者たちを通して神の業を為して下さる故に、私たちは主の十字架を第一に誇る者でありたい。 牧師 山本龍一郎

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2017/04/16 Sun
・復活のイエス・キリスト

「『なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。』そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。」 ルカによる福音書24:5b-8

 本日はイースター、墓より甦られたイエスの復活を喜ぶ特別な礼拝日です。十字架において絶叫されながら死なれたイエスが約束された通り、死の暗黒の壁を打ち破り復活されたことを祝います。その出来事を最初に見聞きしたのは日曜日の早朝、香料を持ってイエスの亡骸が納められた墓に足を運ばれた婦人たちでした。恐ろしい十字架へ引き連れられていったイエスの傍から弟子たちは全員逃げ去ってしまいましたが、婦人たちだけはイエスの傍に踏みとどまっていたと聖書には記されています。イエスを愛する思いが婦人たちの心を支え続けたのでしょう。その二日後、イエスの亡骸が収められた墓に赴いた女性たちは驚くべき事態に遭遇します。イエスの復活、それは罪の結果としての死が滅ぼされ、神による新しい永遠の命に至る輝かしい道が切り拓かれたことを意味します。希望のない場所には不平や不満の思いが満ち、人は誰でも不安な思いに駆られながら自暴自棄になっていきます。心は暗くなり、全てが空しくなり、後は死を待つばかりとなります。しかし、神は御子イエスを復活させて、失望してた婦人たち、弟子たちを再び励まし、神の国は確かに彼らの直ぐ傍にある希望を与えられたのです。死を打ち破ったイエスの勝利は、この地上において、神の義、永遠の平和と命を求める者にとって確かな希望を与える約束となったのです。今週もイエス様を信じつつ、共に喜び、共に感謝し、共に希望ある日々を過ごすことができますようお祈り致します。 牧師 山本龍一郎

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2017/04/09 Sun
・エリ、エリ、レマ、サバクタニ

「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」 マタイによる福音書27:46

 4月の第二週主日を迎えます。本日よりキリストの受難週となります。日本全国の各地で桜が満開となりました。小倉教会の敷地内桜の木も鮮やかなピンク色に染まっています。時より花びらが風に吹かれて散る光景を目にします。かつて日本で激しい戦火があった時代、人々は桜の木から散ってゆく花びらを目にする際、戦地に赴いてる者たちの命を想ったものです。花々が咲き乱れる春の訪れは瞬く間に過ぎ去ります。私たちの人生も長いようで実際は短く感じるものではないでしょうか。私たちは常に健やかで活力に溢れて生きたいと誰もが願うものではありますが、人は徐々に心身に弱さが現れてくるものです。そのことは天地万物を創られた神の摂理の内にある現象ではありますが、そうであってはほしくないと永遠を想う心を神様は私たちの心の内に与えておられます。その願い求めに対して神様は御子イエスによって私たちの願いを叶える道を切り開いて下さったのです。十字架上で絶叫された御子イエスの言葉、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」、この言葉は詩編22編の冒頭にある文章です。それは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。十字架で絶望に至るほどの苦闘したイエスの叫び声は、詩編の言葉であり、また父なる神への心からの訴えであったと思われます。神の子、メシヤが十字架で死に絶えた。しかし、この方の死は今日を信仰によって生きる者たちに永遠の希望を思わせるように、復活による新しい命の誕生へと至らしめるものであったのです。私たちに命を与えるために神は壮大なご計画をもって愛する御子を罪深いこの世界に贈って下さいました。神はキリスト・イエスにおいてこの世を愛されています。 牧師 山本龍一郎