2018/05/20 Sun
説教題: 「主の霊が降る」
聖 書: 使徒言行録1章5節-8節、2章1節-4節
 本日はペンテコステ礼拝の日です。ペンテコステとはギリシャ語で「第50」を意味します。ユダヤでは最大の祭りである過越し祭から七週を迎える時期であり、「刈り入れの祭り」を行いました。神に収穫の初物を捧げられ、シナイ山で神よりモーセに律法が与えられたことを記念するための五旬祭とも呼ばれる祭りです。2000年前、エルサレムから32キロ以内に住むユダヤ人男性は、全てこのような祭りに参加することが法律で定められていました。その祭りで一つとなって集っていた者たちの上に神の霊が烈しく降り、彼らは力を受けます。その力は彼らをキリストの証し人として奮い立たせ、そこにキリスト教会を建て上げるための原動力となったのです。人は希望に満ち、真に人間ととして生きるための力を元来保有しているのではなく、只唯一、神の霊が降る際、私たちの心は清められ、満たされ、真の神に向って生きる喜びと平和の確信を得ることが出来ます。 牧師 山本龍一郎

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2018/05/13 Sun
説教題: 「神の御言葉を賛美します」
聖 書: 詩編56章1-14節
 本日は新入生歓迎礼拝です。若き学生の方々はこれから多くの人と出会い、互いに影響し合いながら人生を進んで行かれることでしょう。3000年前、ダビデは確たる思いをもって進んで行った先が行き止まりであったことを何度も経験します。詩篇の言葉の多くはそのうなダビデの失意と絶望の中で歌われた詩として、また現代に生きる私たちが神に献げる告白の言葉として聖書に綴られています。私たちは自分が願ったこと、思い描いた人生の末路に悲劇や悲惨を体験することもあります。しかし駄目だという思いの中でダビデは、その先に必ず神による救出があることを信じ抜きました。私たちは人の心を見ることはできませんが、神は既に人の心をお見通しです。よって人が人を恐れる必要はありませんが、人間関係におけるトラブルは常に起こります。そのような人間の営みの中に働かれる神の言葉が真実であることを知らされる際、私たちは真に心が自由とされ、人ではなく神の言葉によって自分が生かされていることを喜ぶことができるようになります。危機的状況下においてこそ、神の言葉の真価は発揮します。キリストの平和と祝福が全ての人の上にありますように。 牧師 山本龍一郎


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2018/05/06 Sun
説教題: 「ふさわしい仕方で」
聖 書: コリントの信徒への手紙一 11章17-34節
 神はキリストにおいて立ち返る者を神の食卓へと招いて下さいます。私たちの教会では月に一度、礼拝の中で主の晩餐式を執り行ないます。その食卓に与る者は主イエス様における新しい契約によって結ばれた関係に生きることを決意し、その招きに応えるのであります。かつてイスラエル人が神と彼らとの間で結ばれた古い関係とは律法に基づく関係でありました。神より彼らに授けられた律法を彼らが守ることで彼らは神の民とされたのです。ですからイスラエル人はその関係を永続させるために律法を遵守することに徹しなければならないという緊張感に常に置かれたのです。一方、イエス・キリストによる新しい契約とは、律法ではなく愛による信頼関係を第一とする関係によって成り立つものです。私の罪の全てを引き受けて十字架で死なれた主の贖いによる恵みと愛によって自分は生かされているという思いをもって受けることこそが神に喜ばれる姿勢であるといえます。私たちは常に誰かとの関係の中で生かされている存在に過ぎません。最も偉大なるお方である神との関係を第一としてゆくのであれば、私たち人間同士の関係も豊かなものとされていきます。牧師 山本龍一郎

    
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2018/04/22 Sun
説教題: 「ダビデの祈り」
聖 書: サムエル記 下 7章25-29節

『万軍の主、イスラエルの神よ、あなたは僕の耳を開き、「あなたのために家を建てる」と言われました。それゆえ、僕はこの祈りをささげる勇気を得ました。』(サムエル記下7:27)
 祈るという行為の本質がどのようなことなのかを考えてみますと、とても奥深いものであると思います。本来、人間は何に対して、どのようにして祈ればよいのか分らない存在であり、単に呻きを訴える行為として天なる神に祈ることを自然的に行っていたと思われます。干ばつによる飢饉が起きれば人間は雨乞いをするということです。苦しみや艱難に遭遇することから、人間は藁にしがみつくような想いで熱心に祈ることを始めます。そのような人間の姿勢はごく自然なものと理解されます。一方、聖書では、祈りとは人間側から生じる願いや呻きではなく、神様側より与えられる言葉、すなわち神が示される計画に対する人間の応答行為として祈りは位置付けられています。神に選ばれた少年ダビデは一介の羊飼いでありましたが、神からの選びによってイスラエルの王とされます。そして、預言者ナタンを通して神が揺るぐことない王国を固く据えるという言葉を耳にしたダビデは、神に対して誠実に祈り出す勇気を得るに至ったのです。人は天から与えられなければ、何も受けることができないのです。今週も神の言葉が私たちの力となりますことを祈ります。 牧師 山本龍一郎

       

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2018/04/15 Sun
説教題: 「あなたはどう建てるか」
聖 書: コリントの信徒への手紙一3章10節-17節
 熊本地震の発生から二年が過ぎました。未だ、復興へ向けて途上の生活を強いられているお方もおられます。被災された方々の多くは再び、大きな地震が発生するのではと危惧され、建物を再建築することをためらう人もおられるようです。大分県の耶馬溪町では山崩れが起きて、何軒かの家屋が土砂の下敷きになってしまいました。この地上において家を建てる際、未来永劫、完全な安全が保障されている場所はありません。使徒パウロは異邦人に向けて福音を宣べ伝えて、コリントを皮切りに、エフェソ、テサロニケという順にキリスト教会の基礎を据えていきました。現在、それらの教会は残ってはいません。その時代における役割を終えて解散したか、或いは破壊されたのかもしれません。教会を建てる際、パウロは熟練した建築家のように土台を据えたと言っています。そして、その上に更にパウロの後任者となって責任を任せられた者達が家を建ていると言われます。その土台とは固い地盤のことではなく、イエス・キリストであるとパウロは言います。どんなに素晴らしい建物を建てたとしても、そこにイエス・キリストという盤石な土台が据えられていなければ、教会は人間同志が互いに競い合うようなこの世的な集団になってしまいます。私たちが常にイエス・キリストに目を向けて、この方にだけ信頼を寄せて生きるのであれば、教会は堅固なものとされてゆきます。 牧師 山本龍一郎

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