2018/09/16 Sun
説教題: わたしの内におられる方
聖  書: ガラテヤの信徒への手紙2章15-21節

「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。」ガラテヤの信徒への手紙2章19節

 キリストの福音を宣べ伝えるための使徒、伝道者とされたパウロは自身について、元来より生粋のユダヤ人であり、誰よりも熱心にユダヤ教の律法を重んじてきたと明言しています。パウロが綴った書簡の随所にそのことが記されています。その勤勉実直なパウロに神はイエス・キリストの啓示を与えられました。そのことによってパウロは偏狭なユダヤナショナリズム的精神より解放され、キリストの伝道者と変えられてしまいました。神を認識するということを二つに大別することができます。その一つは、大自然の山々に目を向け、風の音を耳にする際、大自然を神が創造されていると思う人の観念、それを「自然神学」といいます。二つ目は、神が啓示をもって人の心の中に神の存在を示し、その目的と使命を果たすようにと私に示されていると認識すること、それを「啓示神学」といいます。パウロが体験した神学とは後者であることは言うまでもありません。キリストがパウロの心の内に大いなる恵みを与えられたのです。その恵みとは、日々、キリストと共に生き、キリストと共に死ぬということです。その道の先に神による永遠の希望と平和、真実があることを喜びながら、パウロは神に対して第一に生き、自分の使命を果たしたのです。牧師 山本龍一郎

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2018/09/09 Sun
説教題: 朝が来れば、花は咲く
聖  書: 詩編90章1-12節

千年といえども御目には 昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。あなたは眠りの中に人を漂わせ 朝が来れば、人は草のように移ろいます。朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい 夕べにはしおれ、枯れて行きます。 詩編90章4‐6節

 本日は熟年者感謝礼拝日です。日本は高齢化社会へと移り変わり既に50年、現在は世界でトップの超高齢化社会となりました。急速な人口減少に伴う地域産業の縮小、撤退、廃業等を目にしますと寂しさと不安感を覚えます。新たな時代を迎える中で、私たちは創意工夫しつつ、共に生きる社会の実現のために聖書から学び続けなくてはなりません。この世の栄枯盛衰も神様の視点から見るのであれば、昨日が今日へと移る夜の一時に過ぎません。神様は私たちの心の内にある喜び、悲しみ、恐れ、不安に目を向けて顧みて下さいます。神によって創造された私たちは、自分の人生における役目を終えて、再び神の御許に戻るように神様は定められました。主にある平安と祝福に満たされて、共に齢を重ねてゆくことができますよう祈ります。牧師 山本龍一郎

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2018/09/02 Sun
説教題: 「私は必ずあなたと共にいる」
聖 書: 出エジプト記3章7-12節

「モーセは神に言った。『わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。』」(出エジプト記3章11節)

 エジプトにおいて強制労働による虐待を受けたイスラエルの民の呻き声を顧みた神様はモーセを用いて、その民をエジプトより導き出すことを計らいました。モーセはエジプト王に対する恐れと不安、自信のなさも相まり、断ろうとしました。それでも神様はモーセーに語り続けました。「わたしは必ずあなたと共にいる」と。
 人を生かし、導かれる神が共におられることに身を委ねたモーセは、大いなる神の御業の内に新たな歩みを始めました。神様は私たちの苦しみや痛みをつぶさに見ておられます。でも私たちは、その神の存在を知ることも、感じ取ることもできません。不条理と思しき事柄を前にして、私たちは納得することのできない状態に置かれてしまうことがあります。絶望と孤独な思いで一杯になってゆくことを人は経験します。そのようなことをも経験したモーセへの神様からの思召しは「わたしは必ずあなたと共にいる」だったのです。
 人の人生は大いなる神の御計らいの内で素晴らしく愛に満ちたものとされてゆきます。今週も、私たちが共に生きることができますように。主にあって 牧師 山本龍一郎

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2018/08/26 Sun
説教題: 「神の最善」
聖 書: マルコによる福音書8章1-10節

「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」(マルコによる福音書8章2-3節)

 イエス様が語る言葉としるしに魅了された群衆たちは、人里離れた山中にいました。誰もがイエス様の話に無我夢中になって食事のことなど忘れていたのかもしれません。およそ四千人の人たちが無事に下山するための食料は事前に確保されてませんでした。イエス様は群衆が帰途において必要とする食料のことを弟子たちに尋ねます。弟子たちは不測の事態に陥っている状態であることを認識しながら、自分たちの手元に七つのパンがあることをイエス様に伝えました。するとイエス様はパンを手に取り、感謝の祈りを唱えてそれを裂き、弟子たちが群衆に配り、すべての人にパンが行き渡ったのでした。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」という聖句があります。神の言葉が私たち人間の心を強め支えると同時に、現実の諸問題をも克服されるということです。信仰とは現実逃避ではなく、見えない未来に対して神様が最善をなされることを信じ、期待しながら委ねてゆくことの連続であります。その歩みの中で自分にとっての必要が満たされていることを私たちは経験し、内面が育まれていきます。苦難の中に主は共におられます。牧師 山本龍一郎

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2018/08/19 Sun
説教題: 「どん底からの生還」
聖 書: ルカによる福音書15章11-32節

「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」(ルカ15:18-19)

 イエス様が語られた放蕩息子の譬え話は、親は、罪を悔いる我が子を常に憐れみと真実をもって受けい入れるということだけが際立って読者に伝わってきます。その息子は生前相続の取り分を手にすると、家を離れ、僅かな期間で全てを散財し、極貧となりました。落ちぶれた末に雇人の一人にしてもらおうと、意を決して父親のもとへ帰ると、父親は彼の帰宅を大喜びで迎えたのです。一方、家を離れずに真面目に畑仕事で汗水流していた兄は、その父の弟に対する言動に納得できません。放蕩の限りを尽くした弟を無条件で赦し、受け入れる父親の姿に疑問を抱いたのです。社会性があり、家の事柄に配慮してきた兄の対極に放蕩息子の弟がいます。その両者を親は愛していると結論付けますが、一度は失われた弟の生還を心から喜ばれた。それは弟への偏愛ではなく、真実で無条件な愛を動機としてものであると主イエス様は語られます。父なる神様は、私たちが自分の愚かさに気づかされ、主イエスの名によって素直に神に対して生きるようになることを望んでおられます。主に向かって喜びある人生を始めましょう。牧師 山本龍一郎

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2018/07/29 Sun
説教題: 「対価を払う」
聖 書: 創世記23章12-20節

「アブラハムは国の民の前で挨拶をし、国の民の聞いているところで、エフロンに頼んだ。『わたしの願いを聞き入れてくださるなら、どうか、畑の代金を払わせてください。どうぞ、受け取ってください。そうすれば、亡くなった妻をあそこに葬ってやれます。』」(創世記23:12-13)

アブラハムは神様から与えられた土地に亡くなった妻サラを葬りました。アブラハムは葬りの場所を得るために、誠実にヘト人と交渉しました。やがて自分たちがそこに属する場所となりは、その子孫たちに受け継がせるという神様からの託宣に基づいていたからです。たとえ神様が与えるとアブラハムに言われた場所であっても、アブラハムはヘトの人に墓の対価に見合う代金を支払い、その地域の人々と平和に暮らせるように心がけたのです。愛する者を失うという喪失感の中で、葬りの準備をするということは、遺された者の傷心が段階を経て癒されてゆく過程ともなります。追悼や記念は、先に召された者たちを何時までも思い出したいという衝動に駆られてなされるものです。私たちが神様から与えられた恵みを共に分かち合いながら、いつまでも平和に暮らすことができますように。 牧師 山本龍一郎

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2018/07/15 Sun
説教題: 「神が必要を満たされる」
聖 書: 創世記22章1-2節,9-13節

「神は命じられた。『あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。』」(創世記22章2節)

 異邦の地メソポタミヤより、神によって呼び出されたアブラハムは紆余曲折を経て、カナン地方のベエル・シェバで曲がりなりにも定住できるようになります。親類と共に多くの家畜を率いての半遊牧民のアブラハムの後継者として、神様は約束に基づいてイサクを与えます。高齢となったアブラハムと、その妻サラの間に子はなく、半ば諦め気味でしたが、晩年、アブラハムとサラは大いなる神の大計を知るに至ったのです。その独り子イサクを燔祭のための犠牲として献げよと、神様はアブラハムの信仰を試されます。アブラハムは神の仰せに心服しますが、その決断を見られた神様は、その行為を止めよとアブラハムに語り、イサクの命は取り留められます。その代わりに神様は木の茂みに一匹の雄羊を用意されていました。アブラハムはそれを息子の代わりとして献げました。創造主なる方と人間との相関関係は、常に礼拝を通して確立されていきます。その礼拝において、私たちが奉じる最高の献げ物とは何でしょうか。神様は既に人間が献げるべく奉納物を知っておられ、また準備もされています。明日の必要は神が備え、与えて下さるというあなたの信仰の思いの中に神は共におられます。主の山に備えあり。ヤーウエ・イルエ! 牧師 山本龍一郎

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2018/07/08 Sun
説教題: 「あなたは確かに笑った」
聖 書: 創世記18章9節-15節

「主はアブラハムに言われた。『なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。』」(創世記18:13-14)

 神様からの呼びかけによってアブラハム生まれ故郷カルディアのウルを出立し、カナン地方に移り住むようになりました。神様はアブラハムとの間に契約を交わし、彼の子孫に土地を与え、繁栄をもたらすことを約束されました。しかし、アブラハムと妻のサラには子どもがいませんでした。夫の苦心を察したサラは女奴隷ハガルによって跡継ぎとなる子を授かる可能性を願い、アブラハムに胸の内を打ち明けたのでした。ハガルはアブラハムとの間に男の子を産んだ。その子はイシュマエルと名付けられます。アブラハム86歳の時でした。アブラハムが99歳になった時、神様は言われました。妻のサラから男の子が生れるとのことでした。アブラハムも妻のサラも一笑に伏しました。二人の間にイサクが生れます。跡継ぎ問題に暗い影を落としながらも前向きに生きた老年の二人に訪れた神の大計、それは人間による努力の限界を超える出来事を神様がなされるということです。アブラハムの子孫としてイエス・キリストが生れ、今も救いが世界中に溢れ出しています。神様は古より人間の思いを遥かに超えて、地の果てに至るまでの未来を見据えておられます。そのことを信じる際、人は一切の憂いから解放され、歓をつくしながら神様に対して新しく生きることができるようになります。牧師 山本龍一郎

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2018/07/01 Sun
説教題: 「祝福のはじまり」
聖 書: 創世記12章1節-9節
「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。創世記12:1-3」

 聖書において全ての国民の父、即ちあらゆる種族の祖と呼ばれるようになったアブラムは、元来よりカナン地方(現在のイスラエル周辺)に住んでいたのではなく、ユーフラテス川が流れるバビロン方面より移住してきた人でした。
 アブラムは、神の呼びかけに従い、家族や親類と共に生まれ故郷を離れた。アブラムが故郷を離れる必要があったのかについては判りません。ただ、アブラムは神の言葉に信従したのでした。私たちの人生の決断の先にどのような未来が準備されているのかを私たちは知ることができません。また、それは神だけが知っていればよいことであり、私たちは知り尽くす必要もありません。何故ならば、神様は私たち大いなるご計画の内にある素晴らしい明日を備えて下さるからです。全ての人が常に未来に希望を抱きながら、穏やかで平和な日々を過ごしてゆくことができますように。牧師 山本龍一郎

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2018/06/24 Sun
説教題: 「共に労苦し、奮闘しよう」
聖 書: テモテへの手紙一 4章6節-10節
「わたしたちが労苦し、奮闘するのは、すべての人、特に信じる人々の救い主である生ける神に希望を置いているからです。」テモテへの手紙一4:10

 ダマスコという場所でキリストによる人生の方向転換へと導かれたパウロが耳にした言葉の一つは、「わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。使徒言行録9:16」でした。真の神がパウロに与えられた試練と苦難は福音宣教に付随するものであり、大いなる意義があるものでした。キリストよりパウロに与えられた恵みとは、真実なる神が彼を赦し、悔い改めへと導き、彼に神との和解の印として福音を宣べ伝えるという奉仕を与えられたということです。2000年前、主イエス・キリストの教えを見聞きした人々の多くは復活したキリストが再び来られる日は近いと信じておりましたが、一向にその気配がなく、時が流れ、教会は次世代への信仰継承という新たな課題に接したと思われます。そのように当時の人々も信仰の思いの内にある希望のために労苦し、奮闘したのです。
 人にとりまして最も大事なものとは何であるのか。多くの人にとっては自分の命であることは確かなことです。その命が神によって与えられていることを知らされ、信じる際、人は自分のためではなく神のために生きるようになります。そこに希望があります。牧師 山本龍一郎

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2018/06/17 Sun
6月24日(日)より神学校週間となります。全国壮年連合より発行されている広報紙の巻頭言を担当された西南学院大学神学部 神学部長 金丸 英子先生による記事をご紹介いたします。(後半部分)

 確かに、ひとりの人の献身の決意は、キリストとの間の、極めて人格的で個人的な信仰の出来事に違いありません。しかし、その背後には、キリストの委託を受けた「宣教する弟子」としての交わり・教会が必ず存在します。「宣教する弟子たち」によるバプテスト教会の真骨頂です。教会の祈りのないところでの献身の歩みほど、孤独で、険しいものはありません。神学生たちは、神からの召命を受け、生活を献げて、人間的な諸課題に悩み、神学の学びと格闘しながらも、日々伝道者としての備えをしています。教える者は、学生にその召命をお与えになった神と、送り出して下さった教会に信頼を置いて、務めに励んでいます。
 キリストから「宣教する弟子たち」と呼ばれた教会の兄弟姉妹の皆様、同労の仲間として神学生を覚え、祈りの内に歩みを共にしていただけますよう、神学校週間のこの時、改めてお願い申し上げます。

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2018/06/10 Sun
6月24日(日)より神学校週間となります。全国壮年連合より発行されている広報紙の巻頭言を担当された西南学院大学神学部 神学部長 金丸 英子先生による記事をご紹介いたします。

「宣教する弟子たち」の献身と神学生
「この礼典を受けるように、キリストによって導かれている者に対して、聖霊は彼らが宣教する弟子となるように要求している。これは特別な教会と役員、あるいは特別な人に要求されているのではなく、キリストの委託は弟子たる者すべてに与えられていいるものにほかならない」(ロンドン信仰告白、41頁)

 バプテストの先達は、「この礼典(バプテスマ)」を受けるように導かれる者は、「宣教する弟子」となるように求められていると告白しました。この部分は、当時の敵対者から手ひどく批判されました。福音宣教が「特別な人」(教職者)以外の、バプテスマを受けた「すべて」(信徒)に委ねられているとしたからです。後にその部分の変更を余儀なくされたものの、先達は、キリストに従う者として導かれ、バプテスマを受けた個々の信仰者が教会を立て、その教会の総意によって、特定の人物の召命を認め、伝道者として立ててゆくとの告白は掲げ続けした。・・・次週に続く

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2018/06/03 Sun
説教題: 「新しい契約に仕える資格」
聖 書: コリントの信徒への手紙二 3章1節-6節
 「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。」 コリントの信徒への手紙二 3:1a

 規則や戒律は集団の秩序や安寧を維持するために必要、且つ不可避であるが、出来るのであれば、私たちの生活はそのようなものに拘束されずに主体性ある自由なものであってほしい。そのような自由のための責任を負う生き方を身に着けることこそが私たちに求められていることではないかと思います。かつてシナイ山において神よりモーセに授けられた律法はイスラエルの民が生きるための戒めでありました。彼らはその戒め(文字)を守ることによって神の民とされると信じたのですが、誰一人全てを守り貫くことは不可能となったのです。人の努力だけによって神様から及第点を頂いて天国に入ることは出来ない事実に、誰もが絶望的な思いに陥る他ないのです。その人間の限界を満たして下さった方こそが主イエス・キリストです。キリストは私たちの心の破れを修繕し、命の水を溢れさせて下さります。日々、明日に向って生きる力と勇気、感謝の思いへとキリストだけが導くことができるのです。その思いは文字ではなく「霊」、即ち神ご自身の働きによって満たされるものです。素直に、愚直にキリストに向って生きることを神は喜ばれます。牧師 山本龍一郎

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2018/05/27 Sun
説教題: 「罪赦されて、新しく生きる」
聖 書: マタイによる福音書9章1-8節
 人々は思っていた。罪の結果こそが病気に罹り苦しむことにつながると。しかし、イエスであれば助けてくれると信じた人たちが中風の男性をイエスの元に連れてきて、彼の御手に全てを委ねた。中風とは脳卒中になり手足等を動かすことができない状態になる病です。その男性の信仰心の有無についてはわかりません。イエスはその人に「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と励まされた。そこにいた律法学者は心の中で呟いた。「この男は神を冒涜している」  罪を赦す主権は神にだけ属するものであり、人に与えられているはずがないとその律法学者は考えたのです。イエスは罪の結果が病であると結論付ける者達に対して、言葉をもって一つの出来事を起されました。中風の人に向って「起き上がって床をかついで、家に帰りなさい」と呼びかけると、その人は自ら立ち上がって、家に帰っていったのでした。多くの人々はイエスに神の権威が委ねられていることを、そこに見たのでした。 牧師 山本龍一郎



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2018/05/20 Sun
説教題: 「主の霊が降る」
聖 書: 使徒言行録1章5節-8節、2章1節-4節
 本日はペンテコステ礼拝の日です。ペンテコステとはギリシャ語で「第50」を意味します。ユダヤでは最大の祭りである過越し祭から七週を迎える時期であり、「刈り入れの祭り」を行いました。神に収穫の初物を捧げられ、シナイ山で神よりモーセに律法が与えられたことを記念するための五旬祭とも呼ばれる祭りです。2000年前、エルサレムから32キロ以内に住むユダヤ人男性は、全てこのような祭りに参加することが法律で定められていました。その祭りで一つとなって集っていた者たちの上に神の霊が烈しく降り、彼らは力を受けます。その力は彼らをキリストの証し人として奮い立たせ、そこにキリスト教会を建て上げるための原動力となったのです。人は希望に満ち、真に人間ととして生きるための力を元来保有しているのではなく、只唯一、神の霊が降る際、私たちの心は清められ、満たされ、真の神に向って生きる喜びと平和の確信を得ることが出来ます。 牧師 山本龍一郎

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2018/05/13 Sun
説教題: 「神の御言葉を賛美します」
聖 書: 詩編56章1-14節
 本日は新入生歓迎礼拝です。若き学生の方々はこれから多くの人と出会い、互いに影響し合いながら人生を進んで行かれることでしょう。3000年前、ダビデは確たる思いをもって進んで行った先が行き止まりであったことを何度も経験します。詩篇の言葉の多くはそのうなダビデの失意と絶望の中で歌われた詩として、また現代に生きる私たちが神に献げる告白の言葉として聖書に綴られています。私たちは自分が願ったこと、思い描いた人生の末路に悲劇や悲惨を体験することもあります。しかし駄目だという思いの中でダビデは、その先に必ず神による救出があることを信じ抜きました。私たちは人の心を見ることはできませんが、神は既に人の心をお見通しです。よって人が人を恐れる必要はありませんが、人間関係におけるトラブルは常に起こります。そのような人間の営みの中に働かれる神の言葉が真実であることを知らされる際、私たちは真に心が自由とされ、人ではなく神の言葉によって自分が生かされていることを喜ぶことができるようになります。危機的状況下においてこそ、神の言葉の真価は発揮します。キリストの平和と祝福が全ての人の上にありますように。 牧師 山本龍一郎


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2018/05/06 Sun
説教題: 「ふさわしい仕方で」
聖 書: コリントの信徒への手紙一 11章17-34節
 神はキリストにおいて立ち返る者を神の食卓へと招いて下さいます。私たちの教会では月に一度、礼拝の中で主の晩餐式を執り行ないます。その食卓に与る者は主イエス様における新しい契約によって結ばれた関係に生きることを決意し、その招きに応えるのであります。かつてイスラエル人が神と彼らとの間で結ばれた古い関係とは律法に基づく関係でありました。神より彼らに授けられた律法を彼らが守ることで彼らは神の民とされたのです。ですからイスラエル人はその関係を永続させるために律法を遵守することに徹しなければならないという緊張感に常に置かれたのです。一方、イエス・キリストによる新しい契約とは、律法ではなく愛による信頼関係を第一とする関係によって成り立つものです。私の罪の全てを引き受けて十字架で死なれた主の贖いによる恵みと愛によって自分は生かされているという思いをもって受けることこそが神に喜ばれる姿勢であるといえます。私たちは常に誰かとの関係の中で生かされている存在に過ぎません。最も偉大なるお方である神との関係を第一としてゆくのであれば、私たち人間同士の関係も豊かなものとされていきます。牧師 山本龍一郎

    
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2018/04/22 Sun
説教題: 「ダビデの祈り」
聖 書: サムエル記 下 7章25-29節

『万軍の主、イスラエルの神よ、あなたは僕の耳を開き、「あなたのために家を建てる」と言われました。それゆえ、僕はこの祈りをささげる勇気を得ました。』(サムエル記下7:27)
 祈るという行為の本質がどのようなことなのかを考えてみますと、とても奥深いものであると思います。本来、人間は何に対して、どのようにして祈ればよいのか分らない存在であり、単に呻きを訴える行為として天なる神に祈ることを自然的に行っていたと思われます。干ばつによる飢饉が起きれば人間は雨乞いをするということです。苦しみや艱難に遭遇することから、人間は藁にしがみつくような想いで熱心に祈ることを始めます。そのような人間の姿勢はごく自然なものと理解されます。一方、聖書では、祈りとは人間側から生じる願いや呻きではなく、神様側より与えられる言葉、すなわち神が示される計画に対する人間の応答行為として祈りは位置付けられています。神に選ばれた少年ダビデは一介の羊飼いでありましたが、神からの選びによってイスラエルの王とされます。そして、預言者ナタンを通して神が揺るぐことない王国を固く据えるという言葉を耳にしたダビデは、神に対して誠実に祈り出す勇気を得るに至ったのです。人は天から与えられなければ、何も受けることができないのです。今週も神の言葉が私たちの力となりますことを祈ります。 牧師 山本龍一郎

       

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2018/04/15 Sun
説教題: 「あなたはどう建てるか」
聖 書: コリントの信徒への手紙一3章10節-17節
 熊本地震の発生から二年が過ぎました。未だ、復興へ向けて途上の生活を強いられているお方もおられます。被災された方々の多くは再び、大きな地震が発生するのではと危惧され、建物を再建築することをためらう人もおられるようです。大分県の耶馬溪町では山崩れが起きて、何軒かの家屋が土砂の下敷きになってしまいました。この地上において家を建てる際、未来永劫、完全な安全が保障されている場所はありません。使徒パウロは異邦人に向けて福音を宣べ伝えて、コリントを皮切りに、エフェソ、テサロニケという順にキリスト教会の基礎を据えていきました。現在、それらの教会は残ってはいません。その時代における役割を終えて解散したか、或いは破壊されたのかもしれません。教会を建てる際、パウロは熟練した建築家のように土台を据えたと言っています。そして、その上に更にパウロの後任者となって責任を任せられた者達が家を建ていると言われます。その土台とは固い地盤のことではなく、イエス・キリストであるとパウロは言います。どんなに素晴らしい建物を建てたとしても、そこにイエス・キリストという盤石な土台が据えられていなければ、教会は人間同志が互いに競い合うようなこの世的な集団になってしまいます。私たちが常にイエス・キリストに目を向けて、この方にだけ信頼を寄せて生きるのであれば、教会は堅固なものとされてゆきます。 牧師 山本龍一郎

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